今日書かなければならない話ではないけど、もう1ヶ月半くらい前の出来事で、書くタイミングを逸していて、このままでは忘れてしまいそうなので、今日のところにとりあえずねじ込んどきます。
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10月20日、韓国への10泊の旅行から戻った日、駅から『荷物思い;;』と思いつつなんとか家の近所のタバコの自動販売機のあたりまでたどり着き、一服すべく、カバンを置いて自販機前で休憩することにしました。
ベンチが一つ、屋根の下に設置してあるのですが、そこにはワンカップ大関を飲むご老人が一人。ホームレスではないようだけれど、こんなところでワンカップを夕方一人で飲んでいるなんて。あまり近寄らないほうがいいかな、などと思っていたら老人から一言来ました。
老人:「沖縄でも行ってたのかい?」
私:「いえ、韓国なんですよ」
…間
どうやら、老人は、沖縄だったら続ける話がすぐでてきたらしい。
老人:「僕(あれ、オレ、だったかな?もうあやふやになってる)も韓国には行ったことがあるんだよ」
私:「へぇそうなんですか」(話つきあわさせられるのかな^^;)
老人:「昔B29を撃墜したことがあるんだよ。何機落としたと思う?」
私:(うは~)「3機くらいですか?」
老人:(両手の指を全部広げる)
私:「10機!でも、単独じゃなくて共同撃墜ですよね?」(と、つっこんでみる^^;日本軍は確か単独で計数してなかったという記憶が…)
老人:「まぁそうだけれど」
私:「ひょっとして、朝鮮にも、戦闘機隊でいたんですか?」
老人:「そうだよ」
私:「じゃぁ元山(げんさん;ウォンサン)ですか?」
老人:「月光にのってたんだよ。零戦の堀越は天才って言われてるが、ありゃひどい飛行機だったナ。背面飛行してると燃料がエンジンにこなくなるんだよ」
私:「月光っていうと、あの斜銃がついてるやつですか?零戦も後期は燃料タンクに圧力かけたんじゃなかったでしたっけ?」
老人:「背面してて燃料来なくなったな。」
私:「零戦にも乗ったんですか」
老人:「あぁ乗ったよ。でも一番よかったのは96式陸攻だな。爆弾積んで南京まで飛んだんだよ。」
南京爆撃?(昭和12年(1937))
老人:「あれはいい飛行機だったなぁ・・・」
老人:「横須賀が懐かしくてそれでここにいるんだよ」
この老人の青春の終わりは横須賀空だったのかな、と思いました。
その日は睡眠時間も短かったのと、カバンが重くなってきていたので、一旦失礼することにしてしまった^^;
話は聞いてみたかったんだけどね。
私:「それじゃ失礼しますよ、またあったらお話聞かせてくださいな」
夕方にその場所を通過するとき、その老人の姿がないものかといつもきょろきょろしてしまうのだけれど、その日より後、その老人の姿を見かけたことがないのでした。
飛行機乗りは体力での選別が厳しかったそうで、体も丈夫なんだろうけど、昭和12年で渡洋爆撃っていうと。職業軍人としても大正7・8年頃には生まれていたってことかな。だとすると1918年とかその頃の生まれ=もう85歳。
ひょっとして、もう、「帽振れ」で送られてしまった・・・のではないですよね、ご老人。
私の親戚だと伯父二名が陸軍で出征、うち一人は戦後シベリア抑留の経験がありました。
高校の頃の学校の先生の中では、教わった中でシベリア帰りがお一人(授業中ビンタ事件というのがありました)、所属していたクラブの顧問の先生が陸軍中野学校出身…以上が私の身の回りにいた戦争(シナ事変~太平洋戦争)に出征した方々のすべてなのです。
考えるまでもなく、そういう経験がある方もどんどん少なくなっています。軍人の同期会のような団体も、当人が高齢化してどんどん活動停止しているそうですから。
あの戦争に関しては、今はたとえば小林よしのり氏のような意見もあれば、従来学校で教えられてきたような史観もあってさまざまだとは思いますが、どんな立場にせよ、もし、身の回りに戦争経験者:兵隊でも、銃後でも:がいらしたら、お達者なうちに、ぜひお話を聞いて、記録しておいてください。これからはそういう貴重な経験の話はどんどん聞けなくなっていくわけですから…
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ちなみにタイトルの「南京くらいは~」というのは、「荒鷲の歌」という軍歌というか戦時歌謡の一節。この前の部分は「重い爆弾抱え込み」というフレーズが付いてます。
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